近年、あらゆる企業において「健康経営」の重要性が増しています。
言葉自体はよく耳にするけれど、実際にはどういったものか分からないという方もいらっしゃるかもしれません。
健康経営とはどのようなものか、また導入の際に意識したいことなど、産業医・精神科医の尾林誉史(おばやし たかふみ)先生に詳しくお話を伺いました。
健康経営とは何か?
健康経営とは、アメリカの心理学者ロバート・H・ローゼンが「The Healthy Company(1992年)」において提唱した、「従業員の健康管理を重要な経営課題として捉え、企業が従業員個人の健康増進や健康の維持を実践することで、生産性などの業績向上が図れる」という概念です。
当初は、深刻化する医療費負担軽減の側面がクローズアップされましたが、労働人口の減少やブラック企業の顕在化、企業の健康保険料の増大などの経済的・社会的な背景を受けて、日本ではまず「健康経営銘柄」が、そして「健康経営優良法人認定制度」が創設され、独自の発展を遂げてきました。
健康経営の最大のメリットは、プレゼンティーズムやアブセンティーズムの減少による、医療費の抑制です。また、従業員の心身の健康状態が良好になることで、企業全体の生産性向上も期待できます。さらには、組織の活性化や企業価値の向上といった効果も見込まれます。
一方で、2018年時点での健康経営の導入は20.8%にとどまっており、「ノウハウや人材の不足」「効果が見えにくい」「プライバシーへの配慮」といったことが課題に挙げられています。
健康経営を意識した時に、まず取り組むべきこととは?
私は健康経営について、「企業が、従業員の健康を意識した上で、従業員による主体的な増進を後押しし、それを企業活動に積極的に反映していこうとする取り組み」と理解しています。
しかし、その概念はやや抽象的な印象が拭えないかもしれません。
いくつかの企業で産業医業務を行う中で、担当者の方から、「健康経営には興味があるのですが、どのような取り組みから始めればよいのでしょうか?」とご質問いただく機会は大変に多く、当初は、各企業の特性を踏まえ、私なりの導入イメージを個別にお伝えしていました。
健康経営銘柄の選定や健康経営優良法人の認定を受けるためには、企業規模によって、健康経営度調査に回答するなど、認定要件をクリアすることが求められます。
「取り組みを考えた上で、さらに認定要件をクリアしないといけないのか」と落胆された方もいらっしゃるかもしれませんが、どうぞご安心ください。
実は、認定要件として挙げられている項目自体が、まずは企業として取り組み始めるべききっかけそのものなのです。
認定要件については、インターネットから容易に確認できます。認定を目指すことも大切ですが、自社で取り組むべき健康課題を考えるヒントが得られますので、ぜひ一度確認してみてください。
「健康経営は一日にしてならず」
健康経営に取り組もうとすると、何か華やかで、効果的で、魔法のような施策があると思われるかもしれません。
しかし実際は、その企業にとって着手すべき、地道で、誰もが思いつくような打ち手を丁寧にこなすことに他ならないのです。
私が産業医として、常に意識していることは「不調な方はもちろん、不調でない方ともできる限り面談を行うこと」です。
全員面談の効用は、その企業にとっての課題が明確になることももちろんのこと、従業員の方々に等身大の課題意識を、そして、健康経営への参加意識を、主体的に感じてもらうことができる点です。
長時間労働をできるだけ削減しましょうと全員へ呼び掛けること、一人ひとりにとって異なる長時間労働の実態を、それぞれの従業員の立場から考えてもらい、結果的に企業として目的を達成することは、要する苦労に見合って、その定着や効果にも自ずと差が現れてくるものです。
「現場にヒントは隠されている」−まさにその言葉を愚直に体現することこそ、最も着実な一歩になるのだと私は思います。
「健康経営はトップの意思を反映する」
健康経営の主役は、もちろん従業員のみなさんです。
しかし、いくらその旗振り役を社内で決めて、数多ある中から有効なツールを検討しても、ただお膳立てをしただけでは、誰も動き出すことができません。一見華やかに見える施策も、絵に描いた餅になってしまいます。
最も大切なことは、企業のトップが、誰よりも従業員ひとりひとりの健康を願い、そのために必要不可欠な概念として健康経営を理解し、その導入を強力に推進することです。
私が携わらせていただいている産業医先でも、健康経営を導入し、実効的に機能している企業さんはすべて、トップの方々の並々ならぬ意欲と、現場への強い推進力が奏功している企業さんばかりです。
「健康経営は現場に任せておけばよい」「まずは仕組みを導入すれば何とかなるだろう」万が一、そうお考えのトップの方がいらっしゃるようであれば、「まずは隗より始めよ(事を始めるには、自分からやり出さなければならない)」の教えを思い起こしていただきたいと思います。
健康経営を実施する企業は、近年において急速に増え続けています。
経済産業省の実施している「健康経営度調査」の回答によると、企業のトップが健康経営の最高責任者を担う割合は、2014年度(健康経営銘柄の開始年度)では5.3%にとどまっていたものの、2021年度には77.2%にまで増加していることが分かっています。
同調査ではさらに、健康経営優良法人2022(中小企業法人部門)の申請数は12,849件(認定数は12,255件)に上ることも分かります。これは2016年度(健康優良法人制度の開始年度)の申請数が397件(認定数は318件)であったことを踏まえると、大幅に増加しており、大規模法人部門においても同様の傾向が示されています。
この結果からは様々な解釈が可能かと思いますが、健康経営を企業の重要施策として捉えている企業数の増加に同期して、その旗振り役を企業のトップが担う流れが加速していると読み取れます。
同調査では、健康経営に関する全社方針の明文化率が92%にもおよんでいるとの興味深いデータも示されており、周知の徹底と実際の行動の両輪が伴っていることも、極めて重要な要素です。
まずは健康経営について従業員に周知することと、トップから行動すること。
多くの企業で、この両輪を意識して取り組んでいただければと思います。
PROFILE: VISION PARTNER メンタルクリニック四谷 院長(精神科医・産業医)尾林 誉史
東京大学理学部化学科卒業後、(株)リクルートに入社。退職後、弘前大学医学部医学科に学士編入し、東京都立松沢病院にて臨床初期研修修了後、東京大学医学部附属病院精神神経科に所属。現在、VISION PARTNERメンタルクリニック四谷の院長を務めながら、23社の企業にて産業医およびカウンセリング業務を担当。メディアでも精力的に発信を行なっている。著書に「元サラリーマンの精神科医が教える 働く人のためのメンタルヘルス術」(あさ出版)、共著に「企業はメンタルヘルスとどう向き合うか―経営戦略としての産業医」(祥伝社新書)など。